今回は小ネタになるんですけど、大分県竹田市の広瀬神社に比叡さんのマストがあったのでレポートしたいと思います。…とはいうものの、ほとんどが広瀬神社についてのレポートになってしまいますが…。
佐伯湾泊地散策の帰りに竹田に竹田市立歴史資料館と広瀬神社に立ち寄りました。

竹田市立歴史資料館。いつもは竹田市内観光するのに駐車場だけ借りるのですが今回ははじめて資料館の中に入りました。建物や常設展は一昔前の資料館という感じですが、2階の企画展のほうはけっこう面白かったです。
今回ここに立ち寄った理由は豊後岡城物語という漫画の本を以前読んでいたので改めって竹田の歴史を知りたいと思ったからと、広瀬武夫について知りたかったからです。広瀬武夫は自衛隊関連の史料館でよく名前を見ましたし、今ちょうど司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでるところなので、興味を持ちました。

竹田市立歴史資料館にある広瀬武夫の像。
広瀬武夫は明治に活躍した海軍軍人で、軍神第1号となった人物です。竹田市生まれで、西南戦争により自宅が焼失し、飛騨高山に移っています。小学校の教師を務めた後、海軍兵学校に入り、卒業後に軍艦「比叡」(初代・コルベット艦)に乗艦し、2度の遠洋航海に出ています。
日清戦争に従軍した後、ロシアに留学してロシア語などを学び、ロシア駐在武官となります。ロシア駐在中はロシアの社交界とも交流があり、ロシア貴族の令嬢と恋仲になったりしました。
帰国後、日露戦争開戦直後の旅順口閉塞作戦に2度に渡り従事します。2回目の閉塞作戦では閉塞船福井丸を指揮しますが、敵駆逐艦の魚雷を受け、船を退艦。その時にまだ船に残っていた部下の杉野兵曹長を探しに船に戻り3度も捜索しましたが、見つからず、、救命ボートに戻ろうとしたところに敵の砲弾を受け戦死しました。
そんな広瀬武夫を祀った神社が、彼の出身地であるこの竹田にはあります。それが市街地東部にある広瀬神社です。歴史資料館を出た後、そちらへ向かいます。



広瀬神社。主祭神として広瀬武夫を祀ってる神社です。昭和10年(1935年)に建てられました。

鳥居をくぐり、階段をあがると左手に見えるのが岡神社。もともとは岡城にあった神社を移設したものなのだそうです。

岡神社からもう1段高い位置に広瀬神社があります。

赤い鳥居をくぐった先にあるのは陸軍大将阿南惟幾(あなみこれちか)顕彰碑 。広瀬武夫と同じく竹田出身の軍人で終戦直前に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した人物。戦争末期、彼は降伏するかどうかの会議において戦争の継続と本土決戦を主張し続けますが、天皇陛下の聖断によりポツダム宣言を受理することに決まり、終戦の日の未明に自害してしまいました。
なにか縁があったのか、少し前に、歴史秘話ヒストリアというテレビ番組で鈴木貫太郎の話をやってるのをちらっと観た時に、阿南惟幾の話もやってました。
本土決戦を主張し、降伏に断固反対の姿を見せていた阿南惟幾ですが、戦争の継続を主張しながらも、一方で軍部の暴走を抑えていた面もあり、立場上、降伏には反対せざる得なかったという苦悩もあったようで、単純な主戦論であった訳ではないようです。自害もポツダム宣言受諾に抗議してのものではなく、立場上責任を取ったといったところでありましょう。


広瀬武夫記念館。家族の写真や手紙などの広瀬武夫の史料が展示してありました。入館料は200円。

文部省唱歌廣瀬中佐の碑。こういう歌があったのですね。初めて知りました。

武夫をしのぶ道(廣瀬武夫散策マップ)。

記念館の下には戦艦朝日のカッターが置いてあります。戦艦朝日は広瀬武夫がロシアから帰国後に水雷長兼分隊長として乗った艦で、艦隊のカッター競技に廣瀬武夫が指揮官となり参加し、優勝したそうです。

カッターの奥には戦艦榛名の絵がありました。こんなところで榛名さんのお姿が見られるとは!

資料館前の展望所からは竹田市街中心部を一望できます。

記念館を見学後、ご拝殿に参拝します。
楼門にあった広瀬神社の案内。

拝殿横にあった慰霊碑。

広瀬神社合祀者名碑

合祀者名碑の土台の石に旅順口閉塞作戦で「福井丸」に積まれた石が使われてるそうです。

軍艦比叡記念マスト復元碑というものを発見!比叡のマストが現存してる!?
しかし、この石碑の手間にあった案内板によりますと、どうやら現在は撤去されて記念館下のカッターのところにその一部が置かれているのみになったらしい…。

おそらく、これが戦艦「比叡」のマストの金具。

マスト本体の一部とは、これのこと…なのでしょうか??説明もなにも無いので確信はできませんが。これではただの丸太なのか、マストの一部なのか判断が難しいデス…。
この「比叡」のマストは数年前までは神社の高台にきちんと立てられていたようです。ネットで画像検索をすると当時の画像がいくつか出てきます。何度も竹田に来ておきながら、これを見てなかった自分が悔やまれますね…。立ってる姿を見たかったものです。
あと、広瀬武夫の乗艦していた「比叡」は初代でコルベット艦の「比叡」だったので、これも戦艦「比叡」のものではなく初代「比叡」のものでは?と疑問がわきましたが、ネットで調べる限りでは戦艦「比叡」のもので間違いなさそうです。

広瀬神社の鳥居から竹田市街を見下ろします。比叡のマストが立ってるところを見れなかったのは残念ですがいろいろ勉強になりました。
そういうわけで、まあ意外なところで艦これの聖地巡礼的な物件に当たったのでご紹介しておこうと記事にしました。艦これ聖地巡礼ネタとしてはパッとしなかったですけど、こういうものもあるよっということで。
ちなみに兵庫県尼崎の難波八幡神社には榛名のマストが現存しているそうです。いつか見に行けたらいいなって思います。
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今回ここに立ち寄った理由は豊後岡城物語という漫画の本を以前読んでいたので改めって竹田の歴史を知りたいと思ったからと、広瀬武夫について知りたかったからです。広瀬武夫は自衛隊関連の史料館でよく名前を見ましたし、今ちょうど司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでるところなので、興味を持ちました。

竹田市立歴史資料館にある広瀬武夫の像。
広瀬武夫は明治に活躍した海軍軍人で、軍神第1号となった人物です。竹田市生まれで、西南戦争により自宅が焼失し、飛騨高山に移っています。小学校の教師を務めた後、海軍兵学校に入り、卒業後に軍艦「比叡」(初代・コルベット艦)に乗艦し、2度の遠洋航海に出ています。
日清戦争に従軍した後、ロシアに留学してロシア語などを学び、ロシア駐在武官となります。ロシア駐在中はロシアの社交界とも交流があり、ロシア貴族の令嬢と恋仲になったりしました。
帰国後、日露戦争開戦直後の旅順口閉塞作戦に2度に渡り従事します。2回目の閉塞作戦では閉塞船福井丸を指揮しますが、敵駆逐艦の魚雷を受け、船を退艦。その時にまだ船に残っていた部下の杉野兵曹長を探しに船に戻り3度も捜索しましたが、見つからず、、救命ボートに戻ろうとしたところに敵の砲弾を受け戦死しました。
そんな広瀬武夫を祀った神社が、彼の出身地であるこの竹田にはあります。それが市街地東部にある広瀬神社です。歴史資料館を出た後、そちらへ向かいます。



広瀬神社。主祭神として広瀬武夫を祀ってる神社です。昭和10年(1935年)に建てられました。

鳥居をくぐり、階段をあがると左手に見えるのが岡神社。もともとは岡城にあった神社を移設したものなのだそうです。

岡神社からもう1段高い位置に広瀬神社があります。

赤い鳥居をくぐった先にあるのは陸軍大将阿南惟幾(あなみこれちか)顕彰碑 。広瀬武夫と同じく竹田出身の軍人で終戦直前に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した人物。戦争末期、彼は降伏するかどうかの会議において戦争の継続と本土決戦を主張し続けますが、天皇陛下の聖断によりポツダム宣言を受理することに決まり、終戦の日の未明に自害してしまいました。
なにか縁があったのか、少し前に、歴史秘話ヒストリアというテレビ番組で鈴木貫太郎の話をやってるのをちらっと観た時に、阿南惟幾の話もやってました。
本土決戦を主張し、降伏に断固反対の姿を見せていた阿南惟幾ですが、戦争の継続を主張しながらも、一方で軍部の暴走を抑えていた面もあり、立場上、降伏には反対せざる得なかったという苦悩もあったようで、単純な主戦論であった訳ではないようです。自害もポツダム宣言受諾に抗議してのものではなく、立場上責任を取ったといったところでありましょう。


広瀬武夫記念館。家族の写真や手紙などの広瀬武夫の史料が展示してありました。入館料は200円。

文部省唱歌廣瀬中佐の碑。こういう歌があったのですね。初めて知りました。

武夫をしのぶ道(廣瀬武夫散策マップ)。

記念館の下には戦艦朝日のカッターが置いてあります。戦艦朝日は広瀬武夫がロシアから帰国後に水雷長兼分隊長として乗った艦で、艦隊のカッター競技に廣瀬武夫が指揮官となり参加し、優勝したそうです。

カッターの奥には戦艦榛名の絵がありました。こんなところで榛名さんのお姿が見られるとは!

資料館前の展望所からは竹田市街中心部を一望できます。

記念館を見学後、ご拝殿に参拝します。

楼門にあった広瀬神社の案内。

拝殿横にあった慰霊碑。

広瀬神社合祀者名碑

合祀者名碑の土台の石に旅順口閉塞作戦で「福井丸」に積まれた石が使われてるそうです。

軍艦比叡記念マスト復元碑というものを発見!比叡のマストが現存してる!?
しかし、この石碑の手間にあった案内板によりますと、どうやら現在は撤去されて記念館下のカッターのところにその一部が置かれているのみになったらしい…。

おそらく、これが戦艦「比叡」のマストの金具。

マスト本体の一部とは、これのこと…なのでしょうか??説明もなにも無いので確信はできませんが。これではただの丸太なのか、マストの一部なのか判断が難しいデス…。
この「比叡」のマストは数年前までは神社の高台にきちんと立てられていたようです。ネットで画像検索をすると当時の画像がいくつか出てきます。何度も竹田に来ておきながら、これを見てなかった自分が悔やまれますね…。立ってる姿を見たかったものです。
あと、広瀬武夫の乗艦していた「比叡」は初代でコルベット艦の「比叡」だったので、これも戦艦「比叡」のものではなく初代「比叡」のものでは?と疑問がわきましたが、ネットで調べる限りでは戦艦「比叡」のもので間違いなさそうです。

広瀬神社の鳥居から竹田市街を見下ろします。比叡のマストが立ってるところを見れなかったのは残念ですがいろいろ勉強になりました。
そういうわけで、まあ意外なところで艦これの聖地巡礼的な物件に当たったのでご紹介しておこうと記事にしました。艦これ聖地巡礼ネタとしてはパッとしなかったですけど、こういうものもあるよっということで。
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コメント
コメント一覧 (1)
マストはね、
神社の奥の山の上のてっぺんに立てられてるのよ。
私の、実家があった場所から
いつも見えてたわ。