今回は前回の佐伯湾泊地散策の番外編として、佐伯市東部の鶴見半島にある戦跡「丹賀砲台」跡をレポートします。

丹賀砲台、砲塔の台座跡に作られたドーム。
丹賀砲台のある丹賀砲台園地へは佐伯駅から車で約1時間ほど。鶴見半島北東部にあります。

リアス式海岸が続く鶴見半島北岸の県道を東に向かって走ります。海岸線に添って走る道なので走りやすい道ではない上にところどころ工事で片側通行になってる為、地図でみた印象より時間がかかったと思います。

丹賀砲台跡のある丹賀砲台園地は入場料200円になってます。しかし、料金所に人影がありません。…ていうか周囲に人っ子一人いる気配がありません。とりあえず勝手に駐車場まで入って車を停めると、係の人を探しました。

駐車場のところにある平和の塔。
しばらくすると料金所の前の作業所のような建物から人の声が聞こえてきたので声をかけてみます。すると管理人とおぼしき年配の男性が出てきました。話をしてみると、現在、砲塔部分まで登るリフトが故障してるので入園料はもらっていないとのこと。丘の上の砲塔まで続いてる斜坑入り口まで案内してもらい、そこで案内が書かれた紙を頂きました。


丹賀砲台跡の案内看板。けっこう新しい。最近設置されたばかりのようです。
ここで、丹賀砲台とはどういう戦跡なのかを説明しようと思います。
佐賀関から佐田岬の間の豊予海峡および豊後水道は太平洋から瀬戸内海へ抜ける海の要衝となっています。ここを守備するために豊予要塞が計画されました。豊予要塞としてここ丹賀砲台をはじめ、鶴見砲台、関崎砲台、高島砲台、佐田岬砲台、沖ノ島砲台、由良岬砲台を設置されました。これらの砲台で豊後水道や豊予海峡を通過しようとする敵艦に対処してました。
その豊予要塞の重要な役割を果たしたのがこの「丹賀砲台」でした。昭和2年(1927年)6月に着工して、昭和6年(1931年)9月に完成しました。

この砲台の特徴はなんといっても砲塔として備え付けられた一等巡洋艦「伊吹」の主砲。45口径30.5cm連装砲で、射程は30km(有効射程26km)もありました。

一等巡洋艦(装甲巡洋艦・巡洋戦艦)「伊吹」は明治42年(1909年)に就航した鞍馬型巡洋戦艦の2番艦。全長137.2m総排水量14636トン、45口径30.5cm連装砲2基を主砲として搭載していました。重巡から空母に改設計されて未完成のまま終戦を迎えた「伊吹」とは別でこちらは2代目ということになるんだと思います。

「伊吹」は明治44年(1911年)にラーマ6世の戴冠式参加するためタイを訪問し、第一次世界大戦ではインド洋へ展開し、後には英国海軍と協力してオーストラリア軍の輸送護衛にあたりました。その後シベリア出兵の支援に用いられましたが、大正10年(1921年)のワシントン軍縮条約で廃艦が決定し大正12年(1923年)から翌年にかけて解体されました。その際、2基あるその主砲の1基は津軽要塞の大間崎砲台、もうひとつをここ豊予要塞の丹賀砲台に移設されたのでした。

そして丹賀砲台で起きた悲劇がこの昭和17年(1942年)1月11日の砲台爆発事故です。
太平洋戦争勃発直後の昭和16年12月下旬、豊予要塞司令部、要塞重砲兵連隊などに戦時編成が令達されます。これに基づき要塞重砲兵連隊は翌月の11日に実射訓練を実施しました。8発の実弾を試射する訓練でしたが、最後の一発が暴発、砲台は一瞬で破壊され、兵士や軍属16名が死亡、28人が重軽傷を負うという大惨事になりました。
爆発の原因はよくわかってません。施設内の資料によると「この砲弾はほかと少し違うがとにかく上にあげよう」と兵士が話していたのを聞いたらしいです。
それにしても、戦艦陸奥の第三砲塔爆発事故といい、けっこう砲塔、砲弾が爆発するという事故は珍しくなかったのかもしれませんね。

爆発事故の慰霊碑。前にあるのが使われていた砲弾とのこと。奥にあるのは弾薬庫の入り口です。

平成12年に豊後水道で鶴見町のまき網漁船「大黒丸」の網にかかって引き揚げられたプロペラ。なんのプロペラなのかは特定できてはいないそうですが、おそらく二式大艇のものではないかと言われています。

地下弾薬庫への通路。

地下弾薬庫内。けっこう広い空間でした。

入ってきたのとは反対側にも出口への通路がありました。

天井は煉瓦造りみたいで味がある作りでした。

駐車場には砲塔の実物の大きさが描かれてました。

丘の上にある砲塔へ続く斜坑。左に階段、右にリフトのレールが続いています。リフトのあるほうは、かつてはベルトコンベアがあったそうで、資材や弾薬を上まで運んでいたそうです。

斜坑を下から見上げます。階段は約160段ほどあるそうです。リフトが故障してるので歩いて登るしかありません。斜坑はなかほどで傾斜がかわります。

リフト。潮風にやられてるのか、ずいぶんボロボロです。

斜坑中程より上部方向。ここから上は傾斜が若干ゆるやかです。

斜坑頂上より下を見下ろします。

入ってすぐの通路。壁には資料が展示してあります。

床の蓋のしてある溝は、おそらく諸管溝跡だと思います。

脂油庫。丹賀砲台に関する新聞の記事が展示されてました。

副動力室。当時の写真が展示してありました。

主動力室。大きな機械が置いてあった跡があります。

砲塔井への通路。

水圧畜力室と上部冷却水槽。

砲側弾火薬庫。

砲塔井入り口。


砲塔井内側から砲側弾火薬庫へ向かって横穴が開いていますね。冷却水の配管でも通っていたのでしょうか?

なにかを留めていた跡でしょうか?小さな穴があいています。

砲塔井。上部は観光用にドームが設置されています。


砲塔井の上から。

砲塔井の壁には暴発事故の跡がそのまま残ってます。

砲塔から外へ出ます。目の前の海は豊後水道。手前の島は大島。遠くには四国がうっすらと見えます。



丹賀砲台の役割位置図。実際の景色と見比べることができます。

かつては砲台として伊吹の30.5センチ連装砲が設置されていた場所には、丹賀ドームが建てられています。

それでは、下へ戻りましょう。

傾斜が急になってる部分。足元に気をつけて降りないと転がり落ちてしまいそうです。
以上、丹賀砲台レポートでした。
僕も今までなんだかんだと砲台跡地って巡ってきましたが、こういう軍艦の主砲をそのまま取り付けた巨大な砲台の跡地は初めてでした。砲塔井の深さを見て、軍艦の主砲の下ってこんなに深くまで設備があるんだなあって事が実感できました。
それに暴発事故の事を知って、戦時中は敵と戦う以外の時でも多くの危険と隣り合わせなんだなあと思いました。
あと整備されているとはいえ、廃墟物件としても魅力を感じましたね。史跡としても残していってほしい物件でもあります。気まぐれていった戦跡ではありましたが学ぶ所が多かったと思います。
(関連記事)
【艦これ鎮守府散歩】佐伯湾泊地

丹賀砲台、砲塔の台座跡に作られたドーム。
丹賀砲台のある丹賀砲台園地へは佐伯駅から車で約1時間ほど。鶴見半島北東部にあります。

リアス式海岸が続く鶴見半島北岸の県道を東に向かって走ります。海岸線に添って走る道なので走りやすい道ではない上にところどころ工事で片側通行になってる為、地図でみた印象より時間がかかったと思います。

丹賀砲台跡のある丹賀砲台園地は入場料200円になってます。しかし、料金所に人影がありません。…ていうか周囲に人っ子一人いる気配がありません。とりあえず勝手に駐車場まで入って車を停めると、係の人を探しました。

駐車場のところにある平和の塔。
しばらくすると料金所の前の作業所のような建物から人の声が聞こえてきたので声をかけてみます。すると管理人とおぼしき年配の男性が出てきました。話をしてみると、現在、砲塔部分まで登るリフトが故障してるので入園料はもらっていないとのこと。丘の上の砲塔まで続いてる斜坑入り口まで案内してもらい、そこで案内が書かれた紙を頂きました。


丹賀砲台跡の案内看板。けっこう新しい。最近設置されたばかりのようです。
ここで、丹賀砲台とはどういう戦跡なのかを説明しようと思います。
佐賀関から佐田岬の間の豊予海峡および豊後水道は太平洋から瀬戸内海へ抜ける海の要衝となっています。ここを守備するために豊予要塞が計画されました。豊予要塞としてここ丹賀砲台をはじめ、鶴見砲台、関崎砲台、高島砲台、佐田岬砲台、沖ノ島砲台、由良岬砲台を設置されました。これらの砲台で豊後水道や豊予海峡を通過しようとする敵艦に対処してました。
その豊予要塞の重要な役割を果たしたのがこの「丹賀砲台」でした。昭和2年(1927年)6月に着工して、昭和6年(1931年)9月に完成しました。

この砲台の特徴はなんといっても砲塔として備え付けられた一等巡洋艦「伊吹」の主砲。45口径30.5cm連装砲で、射程は30km(有効射程26km)もありました。

一等巡洋艦(装甲巡洋艦・巡洋戦艦)「伊吹」は明治42年(1909年)に就航した鞍馬型巡洋戦艦の2番艦。全長137.2m総排水量14636トン、45口径30.5cm連装砲2基を主砲として搭載していました。重巡から空母に改設計されて未完成のまま終戦を迎えた「伊吹」とは別でこちらは2代目ということになるんだと思います。

「伊吹」は明治44年(1911年)にラーマ6世の戴冠式参加するためタイを訪問し、第一次世界大戦ではインド洋へ展開し、後には英国海軍と協力してオーストラリア軍の輸送護衛にあたりました。その後シベリア出兵の支援に用いられましたが、大正10年(1921年)のワシントン軍縮条約で廃艦が決定し大正12年(1923年)から翌年にかけて解体されました。その際、2基あるその主砲の1基は津軽要塞の大間崎砲台、もうひとつをここ豊予要塞の丹賀砲台に移設されたのでした。

そして丹賀砲台で起きた悲劇がこの昭和17年(1942年)1月11日の砲台爆発事故です。
太平洋戦争勃発直後の昭和16年12月下旬、豊予要塞司令部、要塞重砲兵連隊などに戦時編成が令達されます。これに基づき要塞重砲兵連隊は翌月の11日に実射訓練を実施しました。8発の実弾を試射する訓練でしたが、最後の一発が暴発、砲台は一瞬で破壊され、兵士や軍属16名が死亡、28人が重軽傷を負うという大惨事になりました。
爆発の原因はよくわかってません。施設内の資料によると「この砲弾はほかと少し違うがとにかく上にあげよう」と兵士が話していたのを聞いたらしいです。
それにしても、戦艦陸奥の第三砲塔爆発事故といい、けっこう砲塔、砲弾が爆発するという事故は珍しくなかったのかもしれませんね。

爆発事故の慰霊碑。前にあるのが使われていた砲弾とのこと。奥にあるのは弾薬庫の入り口です。

平成12年に豊後水道で鶴見町のまき網漁船「大黒丸」の網にかかって引き揚げられたプロペラ。なんのプロペラなのかは特定できてはいないそうですが、おそらく二式大艇のものではないかと言われています。

地下弾薬庫への通路。

地下弾薬庫内。けっこう広い空間でした。

入ってきたのとは反対側にも出口への通路がありました。

天井は煉瓦造りみたいで味がある作りでした。

駐車場には砲塔の実物の大きさが描かれてました。

丘の上にある砲塔へ続く斜坑。左に階段、右にリフトのレールが続いています。リフトのあるほうは、かつてはベルトコンベアがあったそうで、資材や弾薬を上まで運んでいたそうです。

斜坑を下から見上げます。階段は約160段ほどあるそうです。リフトが故障してるので歩いて登るしかありません。斜坑はなかほどで傾斜がかわります。

リフト。潮風にやられてるのか、ずいぶんボロボロです。

斜坑中程より上部方向。ここから上は傾斜が若干ゆるやかです。

斜坑頂上より下を見下ろします。

入ってすぐの通路。壁には資料が展示してあります。

床の蓋のしてある溝は、おそらく諸管溝跡だと思います。

脂油庫。丹賀砲台に関する新聞の記事が展示されてました。

副動力室。当時の写真が展示してありました。

主動力室。大きな機械が置いてあった跡があります。

砲塔井への通路。

水圧畜力室と上部冷却水槽。

砲側弾火薬庫。

砲塔井入り口。


砲塔井内側から砲側弾火薬庫へ向かって横穴が開いていますね。冷却水の配管でも通っていたのでしょうか?

なにかを留めていた跡でしょうか?小さな穴があいています。

砲塔井。上部は観光用にドームが設置されています。


砲塔井の上から。

砲塔井の壁には暴発事故の跡がそのまま残ってます。

砲塔から外へ出ます。目の前の海は豊後水道。手前の島は大島。遠くには四国がうっすらと見えます。



丹賀砲台の役割位置図。実際の景色と見比べることができます。

かつては砲台として伊吹の30.5センチ連装砲が設置されていた場所には、丹賀ドームが建てられています。

それでは、下へ戻りましょう。

傾斜が急になってる部分。足元に気をつけて降りないと転がり落ちてしまいそうです。
以上、丹賀砲台レポートでした。
僕も今までなんだかんだと砲台跡地って巡ってきましたが、こういう軍艦の主砲をそのまま取り付けた巨大な砲台の跡地は初めてでした。砲塔井の深さを見て、軍艦の主砲の下ってこんなに深くまで設備があるんだなあって事が実感できました。
それに暴発事故の事を知って、戦時中は敵と戦う以外の時でも多くの危険と隣り合わせなんだなあと思いました。
あと整備されているとはいえ、廃墟物件としても魅力を感じましたね。史跡としても残していってほしい物件でもあります。気まぐれていった戦跡ではありましたが学ぶ所が多かったと思います。
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