前回のブログの記事で天一号作戦や坊ノ岬海戦のことを書きました。その中で天一号作戦(坊ノ岬海戦)に参戦した駆逐艦「冬月」「涼月」のことを調べていたら、福岡県北九州市の若松にある軍艦防波堤の存在に行き当たりました。
大戦を生き残った「冬月」「涼月」でしたが、それぞれ昭和20年11月20日に除籍され、駆逐艦「柳」と共に洞海湾の防波堤として沈められました。
沈められた3隻のうち「冬月」「涼月」は埋没していて姿は見えませんが、「柳」だけはその姿を今でも見ることができます。若松なら僕の家から車で一時間ほどで行けるので、早速行ってみました。

軍艦防波堤は若松区の響灘埋立地を走る国道495号線(コスモス街道)より響灘大橋を渡った先にある埋立地の島の南西部分にあります。ナビ等で「軍艦防波堤」で検索すれば詳しい場所は出てくると思います。

そしてこれが駆逐艦「柳」の亡骸です。実際に見てみるとおもったより大きいです。

艦首部分。

このように船体側面の上部が出ていて触れることもできます。「柳」竣工が1917年なので約100年の歴史がこの錆びた鉄板に息づいています。

中央部分より艦首。

埋め立てが進んだ今は港の防波堤ですが、昔はこの洞海湾自体の防波堤でした。

中央から艦尾方向にかけては下がっています。

艦尾。防波堤の地面にぼぼ埋没状態です。

艦尾から。

同じく艦尾から。周囲には釣り客が大勢いました。海釣りの絶好のポイントとなっているようです。

陸側の側面。

陸側から艦首。

艦首部分と案内看板。現代に残る貴重な史料です。戦前、戦中の駆逐艦の姿や大きさが想像できる場所は他になかなかないのでは無いでしょうか?大日本帝国海軍の駆逐艦が一部とはいえそのまま残ってるものはこれ以外にはおそらくないんじゃないかと。土木学会による近代土木遺産2800選にも選出されています。
ちなみにこの駆逐艦「柳」は大正6年(1917年)に竣工した初代(桃形駆逐艦4番艦)柳で、太平洋戦争中は佐世保海兵団で練習艦として使われていたとのこと。大戦中には2代目(松型駆逐艦14番艦)柳もいたので誤解されやすいそうですがそちらは戦後解体されています。

軍艦防波堤にある解説看板。



駆逐艦「冬月」の解説。天一号作戦の生き残りです。排水量や大きさから見るに、現在の海上自衛隊のあぶくま形などの小型護衛艦ほどの大きさがあったのではないかと思います。終戦後、門司港内で機雷に接触、航行不能となります。その後、工作艦となり引揚船の支援をおこないました。除籍後解体され、船体はここに沈められました。



護衛艦「涼月」。坊ノ岬海戦で傷つき、迷子になりながらも、満身創痍で佐世保に帰還した逸話を持つ駆逐艦。防空砲台として大戦を生き残り、ここに眠っています。



駆逐艦「柳」(初代)。地中海遠征に参加した後、佐世保で練習艦となります。世代が違うので排水量や大きさは他の2隻とくらべるとけっこう小さいですね。このスペックを見ると、冬月、涼月も見たくなりますね。埋没してしまってるのが非常に残念です。

冬月や冬月が埋没してると思われる場所。写真手前に涼月、奥に冬月が埋まってるそうです。
案内看板によると同じ若松区にある高塔山に慰霊碑があると書いてありました。確か、佐世保の海軍墓地にも高塔山に駆逐艦の慰霊碑があるという案内を見た覚えがあります。せっかくなのでそちらにも行ってみることに。

高塔山は軍艦防波堤から車で10分ほどの場所にあります。北九州では皿倉山に続く夜景の名所で、僕も免許取りたての若いころ、夜景を見に何度かここまでドライブに来たことがありました。20年ぶりにこんな形で訪れることになろうとは。

高塔山展望台からの景色。洞海湾が見降ろせます。

眼下には若松と戸畑を結ぶ若戸大橋も見えます。1962年に開通したかつては東洋一の吊り橋と呼ばててました。

高塔山より軍艦防波堤がある響町の方向を望む。慰霊碑もこの方向の中腹にあります。

これが駆逐艦「冬月」「涼月」「柳」慰霊碑。忠霊塔のそばにあります。公園内の道案内看板には忠霊塔しか表示されていないのでそれを目印に探すといいでしょう。山の北側の中腹にあります。ちょっとわかりにくかったです。


慰霊碑の前には双繋柱(そうけいちゅう)が置かれていました。双繋柱(双係柱)とは係船柱のことで船を港に繋ぐロープをかける柱のことです。船側と港側と対になってあることから”双”係柱と呼ばれるそうです。

慰霊碑の隣の鉄塔はマストですかね?

慰霊碑の台の部分には各巻の戦歴が書かれてました。ただこれの柳の戦歴を見ると、軍艦防波堤になってる初代柳ではなく2代目の柳のほうの慰霊碑となるらしいですね。

慰霊碑の裏には戦没者の英霊に捧ぐ言葉書かれていました。
そういうわけで、軍艦防波堤、こんな近くにこういった物件があるとは、最近までまったく知りませんでした。正直驚きました。冬月や涼月が埋没してしまってるのは残念でしたが、柳のほうは船体の上部がわずかとはいえ残ってるのは貴重な史料だと思います。
残念なことに冬月、涼月、柳ともに艦これには未実装ですが、秋イベントで秋月が登場したことにより、実装も期待されますね。特に涼月とかエピソードとか印象的なので実装されやすいのではないかと思います。
蛇足ですが、軍艦防波堤としては呉の安浦にある海軍所属貨物船でコンクリート船であった「武智丸」も有名です。呉から竹原に行く途中にあり、こちらは以前何度も訪れていました。

コンクリートで作られた船体はそのままでも防波堤に適したようで、このように今でもそのままの形で残っています。こちらもいずれ紹介したいと思います。
【関連記事】
若松の軍艦防波堤2
【艦これ聖地巡礼】大和さんや矢矧さんの眠る海へ
【参考サイト】
【艦これ】冬月「今も日本を守っています!」軍艦防波堤となった駆逐艦たち! : 艦これまとめ主義
軍艦防波堤連絡会ホームページ
大戦を生き残った「冬月」「涼月」でしたが、それぞれ昭和20年11月20日に除籍され、駆逐艦「柳」と共に洞海湾の防波堤として沈められました。
沈められた3隻のうち「冬月」「涼月」は埋没していて姿は見えませんが、「柳」だけはその姿を今でも見ることができます。若松なら僕の家から車で一時間ほどで行けるので、早速行ってみました。

軍艦防波堤は若松区の響灘埋立地を走る国道495号線(コスモス街道)より響灘大橋を渡った先にある埋立地の島の南西部分にあります。ナビ等で「軍艦防波堤」で検索すれば詳しい場所は出てくると思います。

そしてこれが駆逐艦「柳」の亡骸です。実際に見てみるとおもったより大きいです。

艦首部分。

このように船体側面の上部が出ていて触れることもできます。「柳」竣工が1917年なので約100年の歴史がこの錆びた鉄板に息づいています。

中央部分より艦首。

埋め立てが進んだ今は港の防波堤ですが、昔はこの洞海湾自体の防波堤でした。

中央から艦尾方向にかけては下がっています。

艦尾。防波堤の地面にぼぼ埋没状態です。

艦尾から。

同じく艦尾から。周囲には釣り客が大勢いました。海釣りの絶好のポイントとなっているようです。

陸側の側面。

陸側から艦首。

艦首部分と案内看板。現代に残る貴重な史料です。戦前、戦中の駆逐艦の姿や大きさが想像できる場所は他になかなかないのでは無いでしょうか?大日本帝国海軍の駆逐艦が一部とはいえそのまま残ってるものはこれ以外にはおそらくないんじゃないかと。土木学会による近代土木遺産2800選にも選出されています。
ちなみにこの駆逐艦「柳」は大正6年(1917年)に竣工した初代(桃形駆逐艦4番艦)柳で、太平洋戦争中は佐世保海兵団で練習艦として使われていたとのこと。大戦中には2代目(松型駆逐艦14番艦)柳もいたので誤解されやすいそうですがそちらは戦後解体されています。

軍艦防波堤にある解説看板。



駆逐艦「冬月」の解説。天一号作戦の生き残りです。排水量や大きさから見るに、現在の海上自衛隊のあぶくま形などの小型護衛艦ほどの大きさがあったのではないかと思います。終戦後、門司港内で機雷に接触、航行不能となります。その後、工作艦となり引揚船の支援をおこないました。除籍後解体され、船体はここに沈められました。



護衛艦「涼月」。坊ノ岬海戦で傷つき、迷子になりながらも、満身創痍で佐世保に帰還した逸話を持つ駆逐艦。防空砲台として大戦を生き残り、ここに眠っています。



駆逐艦「柳」(初代)。地中海遠征に参加した後、佐世保で練習艦となります。世代が違うので排水量や大きさは他の2隻とくらべるとけっこう小さいですね。このスペックを見ると、冬月、涼月も見たくなりますね。埋没してしまってるのが非常に残念です。

冬月や冬月が埋没してると思われる場所。写真手前に涼月、奥に冬月が埋まってるそうです。
案内看板によると同じ若松区にある高塔山に慰霊碑があると書いてありました。確か、佐世保の海軍墓地にも高塔山に駆逐艦の慰霊碑があるという案内を見た覚えがあります。せっかくなのでそちらにも行ってみることに。

高塔山は軍艦防波堤から車で10分ほどの場所にあります。北九州では皿倉山に続く夜景の名所で、僕も免許取りたての若いころ、夜景を見に何度かここまでドライブに来たことがありました。20年ぶりにこんな形で訪れることになろうとは。

高塔山展望台からの景色。洞海湾が見降ろせます。

眼下には若松と戸畑を結ぶ若戸大橋も見えます。1962年に開通したかつては東洋一の吊り橋と呼ばててました。

高塔山より軍艦防波堤がある響町の方向を望む。慰霊碑もこの方向の中腹にあります。

これが駆逐艦「冬月」「涼月」「柳」慰霊碑。忠霊塔のそばにあります。公園内の道案内看板には忠霊塔しか表示されていないのでそれを目印に探すといいでしょう。山の北側の中腹にあります。ちょっとわかりにくかったです。


慰霊碑の前には双繋柱(そうけいちゅう)が置かれていました。双繋柱(双係柱)とは係船柱のことで船を港に繋ぐロープをかける柱のことです。船側と港側と対になってあることから”双”係柱と呼ばれるそうです。

慰霊碑の隣の鉄塔はマストですかね?

慰霊碑の台の部分には各巻の戦歴が書かれてました。ただこれの柳の戦歴を見ると、軍艦防波堤になってる初代柳ではなく2代目の柳のほうの慰霊碑となるらしいですね。

慰霊碑の裏には戦没者の英霊に捧ぐ言葉書かれていました。
そういうわけで、軍艦防波堤、こんな近くにこういった物件があるとは、最近までまったく知りませんでした。正直驚きました。冬月や涼月が埋没してしまってるのは残念でしたが、柳のほうは船体の上部がわずかとはいえ残ってるのは貴重な史料だと思います。
残念なことに冬月、涼月、柳ともに艦これには未実装ですが、秋イベントで秋月が登場したことにより、実装も期待されますね。特に涼月とかエピソードとか印象的なので実装されやすいのではないかと思います。
蛇足ですが、軍艦防波堤としては呉の安浦にある海軍所属貨物船でコンクリート船であった「武智丸」も有名です。呉から竹原に行く途中にあり、こちらは以前何度も訪れていました。

コンクリートで作られた船体はそのままでも防波堤に適したようで、このように今でもそのままの形で残っています。こちらもいずれ紹介したいと思います。
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【艦これ聖地巡礼】大和さんや矢矧さんの眠る海へ
【参考サイト】
【艦これ】冬月「今も日本を守っています!」軍艦防波堤となった駆逐艦たち! : 艦これまとめ主義
軍艦防波堤連絡会ホームページ
コメント
コメント一覧 (3)
>>このように船体側面の上部が出ていて触れることもできます。
柳の船体は腐敗が酷いから触っちゃいけないって事を知らないでよくもこんな事書けるな。
あと実物の軍艦と痴女を一緒にするんじゃねーよ。
ただ、みんなそばで釣りしてましたがね。