坊ノ岬沖海戦、それは戦艦大和が沈められた有名な海戦。天一號作戦で一億総特攻の魁となり沖縄に海上特攻するという無謀な作戦はその道中、鹿児島枕崎沖の東シナ海で阻止されました。
1945年(昭和20年)4月7日。戦艦「大和」を旗艦とし、軽巡「矢矧」、駆逐艦「磯風」「濱風」「雪風」、「朝霜」「初霜」「霞」、「涼月」「冬月」の計10隻が参戦し、大和、矢矧、磯風、濱風、霞、朝霜の6隻がこの海戦で沈みました。
今回のエントリーではそんな海戦が行われた海を見渡せる鹿児島県枕崎市の火之神公園内にある平和祈念展望台のレポートを書いていきたいと思います。
火之神公園には2014年5月24日と11月2日の2回訪れています。

駐車場からは遠くに開聞岳がうっすら見えます。

平和記念展望台の入口。この前まで車で来れます。途中の道は若干狭いですが、広い無料駐車場があるので、ここまで車で来たほうが楽かも?火之神公園の入口駐車場からも歩いて来れないこともないです。

展望台には遊歩道を登っていきます。

入り口には「男たちの大和」ロケ地の案内看板が立ってました。

展望台までは石灯籠が並びます。

駆逐艦朝霜の灯籠。

濱風の灯籠。

磯風の灯籠。

矢矧の灯籠。

同じく矢矧の灯籠。大和より矢矧の灯籠のほうが多い印象でした。

こちらも矢矧の灯籠。

大和の灯籠。

天一號作戦戦没将兵慰霊の灯籠。
展望台の前には坊ノ岬海戦で戦った艦たちを紹介する看板が設置してありました。

「歴史に残る第二艦隊および前路掃蕩部隊」の案内看板。

駆逐艦雪風。
幸運艦としても有名ですね。この海戦ではロケット弾の直撃を食らったものの不発で被害を免れてます。そして、戦いを生き延び、生存者の救出し佐世保に帰投してます。その途中、航行不能になった「磯風」を処分しました。
ちなみに駆逐艦「響」も同作戦に参加する予定でしたが、周防灘で機雷に接触して呉に引き返したというエピソードがあります。響の「不死鳥の秘密は、修理のタイミングにもあるんだよ」という台詞はこのエピソードや修理のためレイテ沖海戦に参戦せずに済んだエピソードがあることからきてるらしいです。

駆逐艦初霜。
坊ノ岬海戦で奇跡的にも無傷で生還した駆逐艦。被弾、戦死ともになし。戦傷者2名を出したのみで帰還した艦です。しかも戦闘から逃げていたのではなく、大和の側に付き、大和を補佐し、奮闘しながらの無傷の生還でした。
海戦が終わった後、矢矧、浜風の乗員を救助し、佐世保に帰投しました。

駆逐艦冬月。
坊ノ岬海戦ではロケット弾2発を受けたのですが、いずれも不発だったため、軽微な被害で海戦を生き延びました。その後、大戦を生き抜き、終戦を門司港で迎えてます。

海防艦御蔵。
1945年3月28日に都井岬沖で潜水艦の魚雷(空母艦載機の爆撃とも?)を受け沈没。

海防艦屋代。

水雷艦友鶴。
1934年3月12日、艤装を積み過ぎたことが原因で、転覆事故を起こしてしまった艦。この「友鶴事件」は後の艦艇設計に大きな影響を及ぼしました。

海防艦第三十三号。
1945年3月28日、海防艦御蔵と共に沈没。

確かにこの地に資料館は欲しいところです。

歴史に残る第二艦隊の案内看板。


駆逐艦涼月。
坊ノ岬海戦では大和を懸命に掩護するも、敵爆撃機から艦橋近くに直撃弾1発を受け穴が空き大浸水を来すことになりました。その後火災が発生。弾薬庫の誘爆をまねきます。戦闘不能となり、通信装置も破損した涼月は艦長の判断で帰投を開始します。
しかし、攻撃による被害で艦が前方に傾き前進ができなくなった為、後進での航行を余儀なくされます。被弾で航行関係の機器が破壊され海図も焼失してしまい航海に支障をきたしつつも、途中敵の魚雷攻撃を受けつつも、なんとか満身創痍で佐世保に帰投します。
すでに沈没していたと思われていた涼月の帰投に皆驚いたらしいです。

駆逐艦霞。
坊ノ岬海戦では米艦載機から直撃弾2発、至近弾1発を受けて大破、航行不能になり、冬月により処分されました。霞は10隻建造された朝潮型駆逐艦の最後の生き残りでした。

駆逐艦浜風(濱風)。
坊ノ岬海戦では、船体後部に爆弾を受け、航行不能になったのち、魚雷が右舷中央部に命中、真っ二つになって沈没しました。

駆逐艦朝霜。
天一号作戦には参加したものの、坊ノ岬海戦前に撃沈されてしまった艦です。7日の早朝、朝霜は機関故障により艦隊より落伍してしまい、単艦でいるところを敵に襲われ撃沈されたと言われてます。生存者もおらず、本隊からも離れていたためその最期は明らかになっていないそうです。
ただアメリカ側の史料によれば、敵艦載機の爆撃3発が命中し航行不能となり3番砲塔付近が爆発して真っ二つになり沈没したとのことです。

駆逐艦磯風。
坊ノ岬海戦では、航行不能となった矢矧に横付けしようとしたところを米艦載機に襲われ至近弾を受け、機関つから浸水し、機関停止、舵も故障し、航行不能となりました。その磯風を雪風で曳航して帰投しようとしたものの、敵の追撃から逃げきれなくなることが懸念され、断念。雪風により処分されました。

軽巡洋艦矢矧。僕が一番大好きな軽巡です。
坊ノ岬海戦では、敵艦艇の魚雷を受け、航行不能となるも戦闘を続けました。轟沈するまでに魚雷6本以上、爆弾10発以上の被弾を受けましたが1時間以上も沈まず乗員が「もう早く沈んでくれ!」思うほどでした。
また姿が旗艦の大和とよく似ていたことから、大和と間違われて攻撃を受けたとも言われています。
最期まで粘り強く敵を引きつけて戦ったその姿は、身を挺して主君を守るサムライといったところでしょうか?

軽巡「矢矧」の模型(鹿屋航空基地史料館)

そして戦艦大和。
言わずと知れた世界最大の戦艦「大和」。旧海軍の象徴ともいえる巨大戦艦のその最期。敵機150機による波状攻撃で左舷に十数発の魚雷、十発近い数の爆弾そして無数の至近弾を受け、横転、弾薬庫の誘爆とも機関部の水蒸気爆発とも言われる大爆発で轟沈しました。
魚雷を受けた最初のうちは、注排水システムによって艦の傾斜を回復させていたものの、あまりに左舷に集中して攻撃を受けたため、注排水システムも限界を超え、ついには横転、大爆発をおこして真っ二つになって海の底へ沈んでいきました。

戦艦「大和」の模型(鹿屋航空基地史料館)

そして展望台の土台にひとつだけ展示されていた巡洋艦羽黒。調べてみましたが、坊ノ岬海戦とは直接関係はないものと思われます。



殉難鎮魂之碑。石碑には戦艦大和のリレーフが埋め込まれていました。

「戦艦大和の最後」パネル。

解説のパネル。

各艦の沈没位置。

「殉難鎮魂之碑」から駐車場方向を見下ろす。

「殉難鎮魂之碑」は陸側にテラスみないな感じで建てられています。






坊ノ岬海戦の海を見渡せる広場にはいくつもの歌碑が建てられていました。

この海のむこうで、大和さんや矢矧さんが眠っているのですね。おもわず目頭が熱くなってしまいました。

沈没地点が示された石碑。

錨碑。

すぐ近くには航海の安全を祈願して崇められたという「立神岩」があります。また火之神公園はプールやキャンプ場が整備されています。磯釣りのポイントとしても有名です。
そんな訳で、九州の南の果てまで来てみたのですが、やはり現地に来て、学ぶことや感じることがあるわけで、来てみてよかったなって思います。そしてここに来るきっかけを作ってくれた艦これに感謝です。
鹿児島の沖で大和が沈んだことは知ってましたが、その正確な場所なんてしらなかったですし、どんな戦いで、どんな艦艇が参加したかなどのことは知らなかったです。呉の大和ミュージアムには何度も行ってますが、そこで解説されていた大和の沈没地点に自分が実際に足を運んでみることになるとは思ってなかったですね。
また艦これをやってなかったら、大和以外の艦艇名などは頭に入ってなかったと思います。ここに来たことによって矢矧さんとかの事を強く認識できたんじゃないかなと思います。
鹿児島はけっこう戦跡や史料館があるので、意外と艦これの聖地巡礼できますよ。今後もいろいろと紹介していきたいと思います。
1945年(昭和20年)4月7日。戦艦「大和」を旗艦とし、軽巡「矢矧」、駆逐艦「磯風」「濱風」「雪風」、「朝霜」「初霜」「霞」、「涼月」「冬月」の計10隻が参戦し、大和、矢矧、磯風、濱風、霞、朝霜の6隻がこの海戦で沈みました。
今回のエントリーではそんな海戦が行われた海を見渡せる鹿児島県枕崎市の火之神公園内にある平和祈念展望台のレポートを書いていきたいと思います。
火之神公園には2014年5月24日と11月2日の2回訪れています。

駐車場からは遠くに開聞岳がうっすら見えます。

平和記念展望台の入口。この前まで車で来れます。途中の道は若干狭いですが、広い無料駐車場があるので、ここまで車で来たほうが楽かも?火之神公園の入口駐車場からも歩いて来れないこともないです。

展望台には遊歩道を登っていきます。

入り口には「男たちの大和」ロケ地の案内看板が立ってました。

展望台までは石灯籠が並びます。

駆逐艦朝霜の灯籠。

濱風の灯籠。

磯風の灯籠。

矢矧の灯籠。

同じく矢矧の灯籠。大和より矢矧の灯籠のほうが多い印象でした。

こちらも矢矧の灯籠。

大和の灯籠。

天一號作戦戦没将兵慰霊の灯籠。
展望台の前には坊ノ岬海戦で戦った艦たちを紹介する看板が設置してありました。

「歴史に残る第二艦隊および前路掃蕩部隊」の案内看板。

駆逐艦雪風。
幸運艦としても有名ですね。この海戦ではロケット弾の直撃を食らったものの不発で被害を免れてます。そして、戦いを生き延び、生存者の救出し佐世保に帰投してます。その途中、航行不能になった「磯風」を処分しました。
ちなみに駆逐艦「響」も同作戦に参加する予定でしたが、周防灘で機雷に接触して呉に引き返したというエピソードがあります。響の「不死鳥の秘密は、修理のタイミングにもあるんだよ」という台詞はこのエピソードや修理のためレイテ沖海戦に参戦せずに済んだエピソードがあることからきてるらしいです。

駆逐艦初霜。
坊ノ岬海戦で奇跡的にも無傷で生還した駆逐艦。被弾、戦死ともになし。戦傷者2名を出したのみで帰還した艦です。しかも戦闘から逃げていたのではなく、大和の側に付き、大和を補佐し、奮闘しながらの無傷の生還でした。
海戦が終わった後、矢矧、浜風の乗員を救助し、佐世保に帰投しました。

駆逐艦冬月。
坊ノ岬海戦ではロケット弾2発を受けたのですが、いずれも不発だったため、軽微な被害で海戦を生き延びました。その後、大戦を生き抜き、終戦を門司港で迎えてます。

海防艦御蔵。
1945年3月28日に都井岬沖で潜水艦の魚雷(空母艦載機の爆撃とも?)を受け沈没。

海防艦屋代。

水雷艦友鶴。
1934年3月12日、艤装を積み過ぎたことが原因で、転覆事故を起こしてしまった艦。この「友鶴事件」は後の艦艇設計に大きな影響を及ぼしました。

海防艦第三十三号。
1945年3月28日、海防艦御蔵と共に沈没。

確かにこの地に資料館は欲しいところです。

歴史に残る第二艦隊の案内看板。


駆逐艦涼月。
坊ノ岬海戦では大和を懸命に掩護するも、敵爆撃機から艦橋近くに直撃弾1発を受け穴が空き大浸水を来すことになりました。その後火災が発生。弾薬庫の誘爆をまねきます。戦闘不能となり、通信装置も破損した涼月は艦長の判断で帰投を開始します。
しかし、攻撃による被害で艦が前方に傾き前進ができなくなった為、後進での航行を余儀なくされます。被弾で航行関係の機器が破壊され海図も焼失してしまい航海に支障をきたしつつも、途中敵の魚雷攻撃を受けつつも、なんとか満身創痍で佐世保に帰投します。
すでに沈没していたと思われていた涼月の帰投に皆驚いたらしいです。

駆逐艦霞。
坊ノ岬海戦では米艦載機から直撃弾2発、至近弾1発を受けて大破、航行不能になり、冬月により処分されました。霞は10隻建造された朝潮型駆逐艦の最後の生き残りでした。

駆逐艦浜風(濱風)。
坊ノ岬海戦では、船体後部に爆弾を受け、航行不能になったのち、魚雷が右舷中央部に命中、真っ二つになって沈没しました。

駆逐艦朝霜。
天一号作戦には参加したものの、坊ノ岬海戦前に撃沈されてしまった艦です。7日の早朝、朝霜は機関故障により艦隊より落伍してしまい、単艦でいるところを敵に襲われ撃沈されたと言われてます。生存者もおらず、本隊からも離れていたためその最期は明らかになっていないそうです。
ただアメリカ側の史料によれば、敵艦載機の爆撃3発が命中し航行不能となり3番砲塔付近が爆発して真っ二つになり沈没したとのことです。

駆逐艦磯風。
坊ノ岬海戦では、航行不能となった矢矧に横付けしようとしたところを米艦載機に襲われ至近弾を受け、機関つから浸水し、機関停止、舵も故障し、航行不能となりました。その磯風を雪風で曳航して帰投しようとしたものの、敵の追撃から逃げきれなくなることが懸念され、断念。雪風により処分されました。

軽巡洋艦矢矧。僕が一番大好きな軽巡です。
坊ノ岬海戦では、敵艦艇の魚雷を受け、航行不能となるも戦闘を続けました。轟沈するまでに魚雷6本以上、爆弾10発以上の被弾を受けましたが1時間以上も沈まず乗員が「もう早く沈んでくれ!」思うほどでした。
また姿が旗艦の大和とよく似ていたことから、大和と間違われて攻撃を受けたとも言われています。
最期まで粘り強く敵を引きつけて戦ったその姿は、身を挺して主君を守るサムライといったところでしょうか?

軽巡「矢矧」の模型(鹿屋航空基地史料館)

そして戦艦大和。
言わずと知れた世界最大の戦艦「大和」。旧海軍の象徴ともいえる巨大戦艦のその最期。敵機150機による波状攻撃で左舷に十数発の魚雷、十発近い数の爆弾そして無数の至近弾を受け、横転、弾薬庫の誘爆とも機関部の水蒸気爆発とも言われる大爆発で轟沈しました。
魚雷を受けた最初のうちは、注排水システムによって艦の傾斜を回復させていたものの、あまりに左舷に集中して攻撃を受けたため、注排水システムも限界を超え、ついには横転、大爆発をおこして真っ二つになって海の底へ沈んでいきました。

戦艦「大和」の模型(鹿屋航空基地史料館)

そして展望台の土台にひとつだけ展示されていた巡洋艦羽黒。調べてみましたが、坊ノ岬海戦とは直接関係はないものと思われます。



殉難鎮魂之碑。石碑には戦艦大和のリレーフが埋め込まれていました。

「戦艦大和の最後」パネル。

解説のパネル。

各艦の沈没位置。

「殉難鎮魂之碑」から駐車場方向を見下ろす。

「殉難鎮魂之碑」は陸側にテラスみないな感じで建てられています。






坊ノ岬海戦の海を見渡せる広場にはいくつもの歌碑が建てられていました。

この海のむこうで、大和さんや矢矧さんが眠っているのですね。おもわず目頭が熱くなってしまいました。

沈没地点が示された石碑。

錨碑。

すぐ近くには航海の安全を祈願して崇められたという「立神岩」があります。また火之神公園はプールやキャンプ場が整備されています。磯釣りのポイントとしても有名です。
そんな訳で、九州の南の果てまで来てみたのですが、やはり現地に来て、学ぶことや感じることがあるわけで、来てみてよかったなって思います。そしてここに来るきっかけを作ってくれた艦これに感謝です。
鹿児島の沖で大和が沈んだことは知ってましたが、その正確な場所なんてしらなかったですし、どんな戦いで、どんな艦艇が参加したかなどのことは知らなかったです。呉の大和ミュージアムには何度も行ってますが、そこで解説されていた大和の沈没地点に自分が実際に足を運んでみることになるとは思ってなかったですね。
また艦これをやってなかったら、大和以外の艦艇名などは頭に入ってなかったと思います。ここに来たことによって矢矧さんとかの事を強く認識できたんじゃないかなと思います。
鹿児島はけっこう戦跡や史料館があるので、意外と艦これの聖地巡礼できますよ。今後もいろいろと紹介していきたいと思います。
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